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ルクセンブルク市(、、)は、ルクセンブルク大公国の首都である。人口は90,000人(2009年)。周囲のコミューンを含めた都市圏人口は、103,973人。同名である国名と区別するために「市」を付けて呼ばれることが多い。 アルデンヌの高地にあり、標高はおよそ500m。ペトリュス川がモーゼル川の支流のアルゼット川に合流する所に位置する。ブリュッセルから188km、ケルンからは190km。 世界でも最も富裕な都市の1つであり、市の中心部にはノートルダム大聖堂および市庁舎がある。副都心のキルヒベルクには欧州司法裁判所、欧州投資銀行等の欧州連合の機関、ルクセンブルク大学、ラジオ・ルクセンブルクなどが存在する。 == 歴史 == ローマ帝国時代、2つのローマ街道がこの地で交差する要衝点だった。963年、トリーアのサン・マクシマン修道院と交わした交換条約で、アルデンヌのジークフリートがこの地を手に入れた。ジークフリートは西フランク王国のルイ2世の孫で、神聖ローマ皇帝オットー1世の姻戚であった。ジークフリートは、このアルゼット川に囲まれた岩だらけの崖地に堅固なボック城を建設する。地理的に重要な戦略拠点に位置していたため、要塞は強化されて市場もでき、12世紀末までには市域は西方に今日のノートルダム大聖堂のあたりまで拡大し、新しい城壁も作られた。ヨハン盲目王の時代には新たな要塞も建造された。息子のカール4世は神聖ローマ皇帝となり、ルクセンブルク領主は伯爵から公爵へ昇爵した。 1443年、フィリップ善良公によって征服され、ブルゴーニュ領ネーデルラントの一部に組み込まれる。その後、スペイン領やオーストリア領の南ネーデルラントとしてハプスブルク家の統治下に入る。この時期に城は繰り返し強化され、ルクセンブルクの要塞は欧州でも最も堅固で壮麗なものとなった。 フランス革命戦争ではフランス軍に2度占領される。2度目の戦闘ではフランス軍の包囲を7ヶ月間耐え忍び、難攻不落ぶりで有名になった。「北のジブラルタル」という市の愛称はこの故事に由来する。しかし、オーストリア軍は降伏、ルクセンブルクはフランスに併合される。ナポレオン戦争が終結すると、1815年のウィーン会議でルクセンブルク大公国が誕生するが、実態としてはネーデルラント連合王国の1州として統治されることになった。しかし一方でドイツ連邦に加盟することにもなり、プロイセン王国軍が進駐した。 フランスとプロイセンの間で、ルクセンブルクをめぐってルクセンブルク危機が起こると、1867年のロンドン条約で両大国間の永世中立国となることが決められ、市内の城は解体されることになった。城内に張り巡らされた地下通路網「カズマット」(Casemates)の取り壊しには16年もかかった。同時にプロイセンの駐屯地も廃止された。 オランダ国王でありルクセンブルク大公であったウィレム3世が1890年に男子の世継ぎ無く没すると、元ナッサウ公であったアドルフがルクセンブルク大公となり、オランダとの同君連合を解消、ルクセンブルク大公国は完全に独立を果たし、ルクセンブルク市がその首都となった。 第一次世界大戦が勃発すると、中立宣言にもかかわらず1914年、ドイツ帝国に占領され、ルクセンブルク市にはフランスに近いという理由で小モルトケの総司令部が置かれた。大戦末期には共産主義運動が盛んになり、大公国でも「ルクセンブルク社会主義共和国」が宣言された(ほんの数時間の政権であった)。 1940年、ナチス・ドイツが侵攻、1942年には第三帝国に完全に併合されるも、1944年に連合国軍に解放される。 戦後、ルクセンブルクは中立政策を廃止、北大西洋条約機構の原加盟国となり、また多くの国際機関のメンバーとして外交を展開する。1952年には欧州石炭鉄鋼共同体の本部となったのを皮切りに、現在でも欧州議会の事務局本部、欧州司法裁判所、欧州会計監査院、欧州投資銀行などが置かれ、欧州委員会もブリュッセルのベルレモンのほかにルクセンブルク市内でも業務を行っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ルクセンブルク (都市)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Luxembourg (city) 」があります。 スポンサード リンク
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